院長紹介
DIRECTOR INTRODUCTION
中尾クリニック院長挨拶
私がここにいる理由
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医療法人朋生会 中尾クリニック
院長中尾 暢希
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たくさんある医療機関の中で、中尾クリニックを見つけてくださり、ありがとうございます。
院長の中尾暢希です。少年時代から、「祖父や父のような外科医、町医者になりたい。」そんな想いで医師を目指しましたが、外科医5年目の秋、母の病気がわかりました。
子宮癌でした。それも余命3ヶ月でした。
心ある大学病院の外科医の先生方の支えの中で、地元の開業医の父を手伝うという名目で、母の看病を始めました。
朝、起きて、母の寝息と安否を確認し、父、母、祖母の朝食を作り、掃除、洗濯、買い物、昼ご飯、母の介護、夕食の準備をして、夜の診療。抗癌剤治療のための通院、検査、入院、退院。そして入院。外科医、治療医、町医者の偉大さと、主婦の偉大さを身に染みて感じた日々でした。
患者さんの家族の立場から、医療を外から眺める日々でした。
余命いくばくもない母のために、楽しみにしていた孫の姿を見せてやれないかわりに、今は小児科医をしている弟夫婦と共に、同時に二組で結婚式を挙げました。ウイッグをつけ、酸素マスクをつけながらも、母は列席してくれました。そして、その1週間後、希望どおり、自宅で母を看取ってやりました。
その年の秋、母方の老衰の祖母を自宅で看取りました。
その3年後の秋、障害を持ち、死別も覚悟した、気管切開後の我が子を大学病院のNICUから自宅に連れて帰りました。
その年の冬、膵臓癌末期の父方の祖母を、自宅で看取りました。
その3年後の冬、義父の最期に立会いました。
そして、特発性肺線維症という難病におかされながらも、その死別の直前まで、在宅酸素を吸入しながら、診療にあたってくれていた父を生前の希望どおりに、自宅で看取りました。 臨終のその時、5人の孫たちそれぞれに、私の聴診器を手渡しては、最初に自分たちの命の鼓動を確認させてやり、それが終わると、それぞれに父の胸に聴診器を当てさせてやりました。
父は、父の、祖父としての、医師としての、その責務を全うしたようでした。仏様のような穏やかな顔をしておりました。
父のお通夜が終わった夜中の午前2時前、父の患者様をご自宅でお看取りさせて頂きました。
それからしばらくして、父とほぼ同時刻に急変され、往診させていただきました乳癌末期の患者様をお看取りさせて頂きました。
しばらくして、父と同じ病気の患者様をご自宅でお看取りさせて頂きました。
しばらくして、8歳の小児癌の女の子をご自宅で看取らせて頂きました。
しばらくして、29歳の女性をご自宅で看取らせて頂きました。
しばらくして、しばらくして・・・。
10年ぶりの大雪の日の深夜、長靴を履いて、癌末期の患者様のお宅に往診させて頂く道中、
ちょうど、10年前の大雪の日の深夜に、お看取りさせて頂いた患者様のことを偲ばせて頂きながら、
「何が悲しくて、こんなことを続けているのだろう。」
日々、弱い自分と向き合い、闘いながらも、自分を見失いそうなとき、心折れそうなとき、たくさんの心あるひとたちが、心の羅針盤になってくれました。
病院の心ある先生方、看護師さんたち、地域連携の職員さん、薬剤師の先生、たくさんの訪問看護ステーションの所長さん、たくさんの訪問看護師さん、訪問介護士さん、介護職のみなさん、私に在宅医療のなんたるかを教えてくださったケアマネジャーさん。私の外来を受診してくださる患者さんたち。そして、こんな私を見捨てずに支えてくれる中尾クリニックの職員のみなさん。
そして、何よりも、かけがえのない出逢いとお別れを繰り返してきた、たくさんの患者さんとそのご家族の皆様。
たくさんの心あるひとたちが、私の心の羅針盤になってくれました。
たとえ、私のような、しがない町医者であったとしても、あの日のあの悲しみやあの苦しみ、癒えることのない心の痛み、そんな、人生の深い悲哀から生まれる切なる想いが、いつか、何処かで、どなたかの、心を癒し、お役にたてるのであれば、どこかで、だれかの笑顔につながるのであれば、そんな私の人生も無駄ではない。
そう、教えてもらいました。
父や母たちの病気も、その死別も、子供の病気も決して、無駄ではなかった。意味があったのだ。
そう信じて、生きていたい。そうであってほしい。
いずれ、この身も朽ち果てて、父、母たちのもとに、召されるその日まで。
たくさんの患者様がそうであったように、私もまた、一人の人間として、大切な誰かの希望の光になりうるかもしれない。
誰かの人生を輝かせる光になりうるかもしれない。
たくさんの患者様がそうであったように、私もまた、他の誰でもない、自分だけの人生を生き切り、自分の医師としての使命を全うしたい。
いまでは、幼くして亡くなって逝った我が弟も、義妹も見守ってくれています。
そして、なによりも、
わたしには、かけがえのない出逢いとお別れを繰り返してきた、たくさんの患者さんとそのご家族様が見守ってくださっています。
いつか、そのかけがえのない患者様とご家族様と、お逢いできるその日まで、医者を続けて行こうとおもっております。
もうしばらくだけ、私のことをかかりつけ医と思ってくださる方々のために、残りの医者人生をかけて。
たくさんの患者様がそうであったように、自分が自分であるために、今も、いのちの物語を紡いでいます。
親子3代にわたっての、ここ嵯峨嵐山の地域社会への恩返し、恩送りはまだ、まだ、終わりそうにありません。
それが、わたしがここにいる理由なのかもしれません。
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略歴
嵐山小学校 卒業
高槻中学校 卒業
高槻高等学校 卒業
関西医科大学 卒業
京都府立医科大学附属病院・外科 入局
外科ローテーション:消化器外科、心臓血管外科、乳腺外科、呼吸器外科、移植・内分泌外科、形成外科JR大阪鉄道病院 外科 勤務
京都府立医科大学附属病院 消化器外科 勤務 -
所属学会等
日本外科学会認定医(2003年12月~現在)
日本外科学会専門医(2009年12月~2014年11月)
臨床内科認定医
京都府緩和ケア研修会修了
日医生涯教育認定証
かかりつけ医京都府医師会
癌の母親の看病のため、父の働く中尾クリニックに。
地域医療に従事しながら、母の亡くなる1週間前、母の願いを叶えるため、兄弟で合同の結婚式を挙げる。
母を在宅で看取った後、母方の祖母を自宅で看取り、気管切開術後の息子をNICUから自宅に連れて帰る。
父方の祖母を在宅で看取り、その後、父、中尾榮佑を生前の希望どおり、自宅で看取る。
患者の家族としての経験が、同じ想いをしているどなたかの、心の苦痛を和らげ、心を癒し、お役にたてるのであればと、在宅での看取りも含めた地域医療、在宅終末期・緩和医療に取り組んでいる。